counter

鈴欄

SUZURAN

バレエ・リュス展













鑑賞ガイド






現代の芸術・ファッションの源泉 ピカソマティスを魅了した伝説のロシア・バレエ
魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展
Ballets Russes: The Art of Costume



展覧会概要

1909年にパリで鮮烈なデビューを果たしたバレエ・リュス(ロシア・バレエ)は、革新的なステージにより一世を風靡した伝説のバレエ団です。主宰者セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)の慧眼により、同バレエ団はワツラフ・ニジンスキー(1889-1950)をはじめとするバレエ・ダンサーや振付家に加え、20世紀を代表する作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)ら、数々の新しい才能を輩出しました。ロシアのエキゾティシズムとして人気を集めたバレエ・リュスは、やがてピカソマティスコクトー、ブラック、ローランサン、シャネルら、当時パリで活躍していた前衛の若手アーティストを取り込み、新しいスタイルの「総合芸術」として、バレエだけでなく美術やファッション、音楽の世界にも革新と興奮をもたらし、大きな影響を与えました。
本展では、オーストラリア国立美術館が有する世界屈指のバレエ・リュスのコスチューム・コレクション32演目、約140点の作品を中心に、デザイン画や資料などと併せて、これまでにない規模でその魅力の全貌を紹介します。

バレエ・リュスとは

1909-29年にディアギレフによって主宰され、20世紀初頭の動乱の時代に、舞踊や舞台デザインの世界に革命をもたらしたバレエ団です。ロシア帝室バレエ団出身のメンバーが中心となり、パリを中心にヨーロッパ各地やアメリカ、オーストラリアなどで公演しました。「バレエ・リュス」とは、フランス語で「ロシア・バレエ団」を意味しますが、ロシアで公演したことは一度もありませんでした。伝説のダンサー兼振付家ニジンスキーをはじめ、レオニード・マシーン(1895-1979)やブロニスラワ・ニジンスカ(1891-1972)、セルジュ・リファール(1905-1986)、ジョージ・バランシン(1904-1983)ら、20世紀におけるバレエの革新に大きく貢献した振付家を輩出しました。ストラヴィンスキーが広く世に知られる契機となったのも、ディアギレフに依頼されバレエ・リュスのために作曲した《火の鳥》(1910年)や《春の祭典》(1913年)です。ディアギレフ没後、リファールはパリ・オペラ座の芸術監督を務め、バランシンはニューヨーク・シティ・バレエ団の母体をつくるなど、世界各地のバレエ団の礎はバレエ・リュス出身のダンサーたちによって築かれました。


展覧会の構成

I.初期 1909-1913年 (ロシア・シーズン)
1909年5月にパリのシャトレ座で《アルミードの館》(美術・衣裳デザイン:ブノワ)、《ポロヴェツ人の踊り》、(美術・衣裳デザイン:レーリヒ)、《饗宴》(美術・衣裳デザイン:ゴロヴィン、本展不出品)で鮮烈なデビューを果たしたバレエ・リュスは、その後わずか短期間のうちに《クレオパトラ》(1909年、美術・衣裳デザイン:バクスト)や《シェエラザード》(1910年、音楽:リムスキー=コルサコフ、美術・衣裳デザイン:バクスト)、《火の鳥》(1910年、美術:ゴロヴィン、衣裳デザイン:ゴロヴィン、バクスト)、《ペトルーシュカ》(1911年、美術・衣裳デザイン:ブノワ)、《青神》(1912年、美術・衣裳デザイン:バクスト)などの傑作を次々と発表し、一世を風靡しました。
その後1911年頃には、それまで振付を担当したミハイル・フォーキンに代わり伝説のスターダンサー、ニジンスキーが振付を手掛けるようになります。中でも、《牧神の午後》(1912年、音楽:ドビュッシー、美術・衣裳デザイン:バクスト)や《春の祭典》(1913年、音楽:ストラヴィンスキー、本展不出品)はよく知られています。この時期、鮮やかな色彩で東洋のエキゾティシズムやロシア的な原始性を最高度のテクニックで表現したバレエ・リュスは、異国情緒溢れる甘美な作品を多く生み出しました。

II.中期 1914-1921年モダニズムの受容)
1914年に第一次世界大戦が勃発し、世紀末から続いたベル・エポックが終焉を迎えた頃、ディアギレフはそれまでの東洋趣味から離れ、パリで活躍していたピカソジャン・コクトー(1889-1963)ら若手の前衛アーティストを、バレエ・リュスの活動へ積極的に取り込みます。振付においても、フォーキンやニジンスキーに代わる振付家としてマシーンが活躍し、新たにコミカルさという要素も加わりました。
本展では、ゴンチャロワが美術および衣裳デザインを担当した《金鶏》(1914年、音楽:リムスキー=コルサコフ)の衣裳やマティスがデザインした《ナイチンゲールの歌》(1920年、音楽:ストラヴィンスキー)など、バレエ・リュスがモダニスムと関わり始めた時代のコスチュームを展示します。

III.後期 1921-1929年(モンテカルロ
マシーンがバレエ・リュスを去った後、ニジンスキーの妹ニジンスカが振付を担当し、《結婚》(1923年、本展不出品)や《牝鹿》(1924年、美術・衣裳デザイン:ローランサン)、《青列車》(1924年、台本:コクトー、衣裳デザイン:シャネル、本展不出品)など、モダンで洗練された作品が数多く生み出されました。一方、この時期、ディアギレフはチャイコフスキーやプティパによる伝統的なクラシック・バレエの最高傑作を西欧に紹介したいと考え、《眠り姫》(1921年、美術・衣裳デザイン:バクスト)や《オーロラの結婚》(1922年、美術・衣裳デザイン:バクスト)なども上演しています。また、ディアギレフは音楽家プロコフィエフの若き才能を見抜き、《道化師》(1921年、美術・衣裳デザイン:ラリオノフ)やソヴィエト社会をロシア構成主義的な作風で表現した《鋼鉄の踊り》(1927年、美術・衣裳デザイン:ヤクーロフ)のための作曲を依頼しました。その他、全身レオタードに蛍光塗料が塗られた実験的な衣裳を採用した《頌歌》(1928年、美術・衣裳デザイン:チェリチェフ)が上演されたのも、この時代です。

IV.バレエ・リュス解散後 (バレエ・リュス・ド・モンテカルロを中心に)
ディアギレフの没後、バレエ・リュスは解散し、バレエ・リュスに触発されたバレエ団が数多く誕生しました。中でも最も重要なのが、1932年にバジル大佐とルネ・ブリュムによって結成された「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」です(36年に二人は訣別し、ブリュムは新たに「モンテカルロ・バレエ」を結成、後に残されたバジル大佐は一座を「バジル大佐のバレエ・リュス」と改名しました)。彼らは「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」にディアギレフの腹心であったセルジュ・グリゴリエフ(1883-1968)やボリス・コフノ(1904-1990)を呼び寄せ、また、バレエ・マスターとしてジョージ・バランシンを起用しました。
こうして、同バレエ団はディアギレフのバレエ・リュス時代の主要メンバーが参加し、活動を展開しました。このほか、バロノワ、リャブチンスカ、トゥマノワという3人の有名な「ベイビー・バレリーナ」が活躍したのもこのバレエ団です。
モナコを拠点としたこのバレエ団は、世界中を広く巡業し、オーストラリアでもツアー公演を行っています。同バレエ団で活躍したダンサーたちが、後にオーストラリア・バレエの礎を築きました。本展では、《予兆》(1933年、衣裳デザイン:アンドレ・マッソン)や《公園》(1935年、衣裳デザイン:ジャン・リュルサ)などを展示します。


作品リスト










💃